フランシス・ウィルヘルミナ・ライヤル(アイソン)追悼ページ

このページは、2022年1月に死去したフランシス(クリス・ライヤルの母)を偲んで開設した追悼ページです。当初は、彼女が居住していた主な土地で死亡記事を掲載する予定でしたが、その費用に手が出ない事が分かりました。私達は西側工房サイトのこのページが、フランシス・ライヤルのことを知り、コメントで思い出を語る場となることを願っています。

フランシスは、1935年8月、ユトレヒトのホーリー・トリニティ教会の牧師を務めていた父のもと、オランダで産まれました。独立心に富んだ彼女は果敢に環境を変えました。ウィニペグで育った後、トロント、オーストラリア、バンクーバーで暮らし、息子クリスの出産のためにウィニペグに戻りました。カナダ連邦政府勤務でウィニペグ、再びバンクーバーへ。退職後ビクトリアに定住しました。

幼少時にポリオにかかったフランシスは、さまざまな健康問題に直面しながらも、勇気と忍耐で乗り越えてきました。ポリオが生涯にわたってもたらす影響は、彼女にとって特に重要な問題であり、研究に参加し、「ポストポリオ啓発協会」のアドボカシー活動を支援しました。熱心な読書家で、素晴らしい歌声の持ち主でした。また、自分の葬儀の準備や、ビクトリアにあるガーデン オブ メモリーズ霊園に自分の墓を購入し、家族に見守られながら眠りにつくまで何事にも献身的に取り組み整理整頓が得意だったフランシスの姿も記憶に残ることでしょう。

彼女が亡くなっても姉のリサ(夫・ボブ)とローズマリー、息子のクリス(妻・弥栄美)、そして多くの姪や甥等、彼らの子供達や孫達はいます。彼女の姉ドリーンは彼女が亡くなった4ヶ月後に亡くなりました。彼女の両親、弟のジム、義兄のブルースとケン、姪のバーバラ、親友のゲイルには先立たれました。

注:セキュリティのため、以下の画像ギャラリーでは、意図的にほとんどの名前と日付を伏せてあります。


フランシス・ライヤルの想い出

下の画像をクリックすると、原寸大の画像が表示されます。

フランシスは2003年に初めて「生前予約型葬儀プラン」を手配し、その後自分自身が満足出来るまで練り直しました。2010年、購入した墓を指さす彼女と、2022年に完成したプレートです。クリスに送った写真の裏には、「My ashes will be placed where my finger is pointing(私の遺灰は、私の指がさしているところに納める)」と書いてありました。 私達は彼女の願いをかなえました。


フランシスが30代前半から取り組んだライフワークのひとつに、息子のクリスのことがある。最初の写真は、1969年に撮影されたスタジオでのポートレートで、彼女が最後まで手元に置いていたものです。(2019年にグレンガリー病院で撮影された写真の中で、フランシスとクリスの後ろの壁に見えます。) その後、1974年にウィニペグからブリティッシュ・コロンビア州に初めて列車で旅行したときのもの。1984年にブリティッシュ・コロンビア州に引っ越す前の家族パーティーで贈られたケーキと共に。1993年に親友のゲイルが開いたクリスマスディナーで。フランシスは、日本のクリスを2度訪ねました。最初は姉のローズマリーと一緒に、そして2度目は一人で。次の写真は、2回目の旅行、2004年のものです。最後のフランシスとクリスの2枚の写真は、いずれも2019年にビクトリアのグレンガリー病院で撮影されたもので、1枚目ではフランシスが姉ドリーンからの手紙を手に、2枚目ではドリーン本人が一緒に写っています。後者は、フランシスとクリスが一緒に写っている最後の写真です。


独立心と家族(親友を含む)がフランシスの人生の柱だった。最初の写真は、フランシスがポリオに感染する少し前の1941年の姉弟全員での写真で、次に1990年代初頭の姉妹、そして弟との写真です。次の写真は、1974年に祖父、両親、息子と4世代で撮影したもの。その後、1986年にマニトバ州、1987年にブリティッシュ・コロンビア州で両親と一緒に撮影したフランシスの写真です。最後の2枚は、1990年代前半にノースバンクーバーで撮影したものです:フランシスとその父、そして母と姉のローズマリーと。


フランシスの親友ゲイルは、幼少期からゲイルが亡くなるまで60年以上にわたって「4人目の姉妹」でした。1955年のマニトバ、1986年と2004年のバンクーバーでの彼女達です。


1955年、仕事中のフランシス

フランシスは、仕事と興味深い関係を持っていました。仕事を見つけるのが上手で、とても上手くこなし、たいてい数年のうちに他の仕事に移ってしまいました。マニトバ大学の書店やCBCなど、初期の頃の仕事が一番印象に残っているそうです。彼女は、1970年代から1980年代初頭のカナダ通信省とカナダ運輸省での仕事に最大のやりがいを感じていたようで、この2枚目の写真もその頃のものです。彼女は、必要だと思った時には、恐れず心機一転して行動しました。最後の2枚は、1984年にウィニペグを離れる際のお別れランチと、1985年にバンクーバーで就職活動をしたときのものです。健康上の問題から、1991年に障害者年金で退職することになりました。


「引越」や「新しい環境を探す」という衝動もフランシスの生活環境への考え方を表していました。若い頃、オンタリオ、オーストラリア、ブリティッシュコロンビアと移り住んだ後、息子が生まれた後の数年間、ウィニペグで5回、ビクトリアで1回、バンクーバーで3回、そしてさらにビクトリアで4回引っ越しました。毎回、彼女は自分が何を実現したいのかを理解し、部屋のレイアウトから家電製品に至るまで、確実にやり遂げました。自立した生活が難しくなっても、彼女は次の目標に向かって決してあきらめませんでした。ここにある最初の写真は1963年と1964年のもので、彼女がオーストラリアに移る前とその間のものです。その後、1984年に初めてビクトリアに移り、フランシスとクリスは家財道具よりしばらく前に到着しました。最後の2枚は、1992年にビクトリアへ2度目の引越をしたときのものです。彼女はこれらの写真に「Fran happy to be cleaning those ugly floors(フランは汚い床を綺麗にして嬉しい)」と「Fran and her earthly goods having arrived(フランと荷物がやっと到着)」という説明を付けている。彼女は、人生のあるステージの片付けと、別のステージでの落着き方をよく心得ていました。


フランシスにとって、移動の自由は常に重要なものでした。自分の意思で、自分のできる範囲で、いろいろな場所に出かけました。ポリオにかかる直前の1941年には三輪車、1954年と1986年には自転車に乗っている姿が見られます。1984年の写真には、クリスが生まれた後に父親から譲り受けたマーキュリー・モンテゴとクリスが写っており、マニトバでの生活の間、彼女はこの車に乗っていました。晩年は自分のスクーターを持って、ビクトリアでの行動範囲を広げ、自由に楽しんでいました。写真は、2014年にお気に入りのスクーター(2台目)に乗っているところです。


最後に、オランダで撮影されたフランシスと母親の写真を2枚ご紹介します。1枚は誕生から間もない1935年、もう1枚は1955年に母娘でオランダとイギリスを旅行した時のものです。


このフランシス・ライヤルの追悼のためのカバー写真は、2017年に彼女の最後のアパートで撮影されたものです。ここでは、彼女が座っていた場所の反対側にあるバルコニーからの景色と対になっています。フランシスはリビングルームの椅子から季節の移り変わりを楽しんでおり、この景色は晩年の宝物となりました。


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